蛇足的な話を先にしますが、「岩槻」は昔は「岩着」とも書いたと言われている様です。岩槻の歴史をご教示頂いた方から「何故、石材なんか無いこの場所に「岩着」の文字が充てられたのだと思うか?」と尋ねられた事が在ります。私は、はるか上流の群馬県の玉村付近では、シールド工事の際に大径礫が地面下にゴロゴロしているのを観ていますので、あるいは洪水などの際に、大きな岩がこの辺まで流れ着いたのかな?と思っていますが、埼玉県のボーリングデータを観ても(ボーリングは「点」でしかないので)この辺の証明にはなりませんでした。
本題に戻ります。遷喬館の束石は図示(復原修繕工事報告書から引用)の通り数多くありますが、丸で囲んだ一個の束石は貝殻細片を多数含んだ石灰質砂岩が使われています。玄関部分の四角く書かれた束石も伊豆の凝灰岩だと思いますが、これはこの外観だけでは判断出来ません。
その束石の外観がこれです。写真を取る時に石材の表面に妙に光るものが有るのでゴミが付着していると思って手で払いのけようとしたら、実は貝殻の断面が見えて居ました、下の画像はその部分の接写です。何故、一個だけなのかは謎です。
遷喬館の基礎部分を北側から観た画像です。束石・葛石共に大部分が安山岩系統です。手前の小砂利がある雨滴石は今回の追加工事です。雨滴石と建物の間の白い部分はコンクリートのべた基礎・耐圧盤です。
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