車で移動出来れば僅か 13 km 余りの距離を移動するのに、公共交通機関を使って片道46 km 余りを移動して同じ千葉県内の八千代市米本の小さな稲荷神社を訪ねた。千葉県の北総台地は、明治の初期までは「牧」としての性格が強く、開拓者が入植し始めたのが明治初期からなので、神社も明治の半ばに整備され田ものが多い。明治以前に創建された神社も勿論多いのだが、安政の江戸大地震や大正の関東大震災で被害を受けたものが多い。現在の社殿基壇「小松石」と思われる石材が使われているが、関東大震災で倒壊した為に昭和三年に再建された事が刻まれている。
神社額はかなり風化と地震の影響であろうか?かなり傷んできてはいるが、重厚な彫刻を施したもので、北総に多い大理石の平板な神社額を見慣れてしまった目には久々にお宝に出会った気持だった。神使である「狐」像は、かなりの数が奉納されているものの、破損が激しいが、粒状組織が目立つ緑色凝灰岩が使われている。
緑の線が実際の移動経路で片道 46 km 。国道16号を走れば 13 km 程度なのだが仕方がない。基壇の石材は、小松石(赤・青)を中心に新小松石と観られる明瞭な流離が観察される「溶岩」まで使われている。
小松石の風化剥離の例。画像の横幅は 20 cm
一部風化剥離により文字が読み取れないが、基壇に組み込まれた「修築趣意書」。ここには記載されていないが明治二十七年にも社殿は修復されているようだ。
「米本稲荷神社:の神社額。勿論、緑色凝灰岩製下半分を拡大した。この図では確認出来ないが、原画を拡大すると所々に彩色した様な緑と赤色が見える。
望遠レンズを使ってやっと「明治二十年十月」と言う文字が読めます。明治二十二年に鳥居が建設されたと記録されていますが、その直前の神社額が残されたものの様です。
現在の鳥居はコンクリート洗い出し仕上げです。
境内社の「稲荷神社」石祠。明治十四年に造立されていますが、実はその下の台石も同じ素材なのですが、明治十七年に造立された石祠が転用されています。神使の狐の尾の部分の破片にこの凝灰岩の特徴の一つである粒状の凝灰質の固まりが観察されます。小さな小豆色の岩片も含まれています。
さて、明日(9月9日)はこの北西側を歩いてみようと思っています。
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