気温もやや穏やかになり、野原を歩くのは心地よい季節になって来たが、社寺の中の岩石を観察するには木漏れ日の明暗で撮影に苦労する時期である。
千葉は江戸以降の開拓者が多いのでだと思うのだが、難読地名が多い。バスを利用して移動する身には、文字とその読みがストンと胸に収まらない「行々林:おどろばやし」や「桑納:かんのう」等と云う地名は耳からの情報が当てにならないので、外の風景を見ながら移動したいのに、「次の停留所」表示から目を離せないのが辛い。
この日は、他の調査コースから洩れてしまった場所の落穂拾いだったので、バラバラに離れた緑で囲んだ位置。広い印旛沼に続く低地の川沿いを歩いたり、蕎麦の花を眺めたり、庚申塚の石組の面白さに見惚れたりとのんびりとした時を過ごすことが出来た。八千代市から船橋に掛けては「馬頭観世音」の石碑や塚が多い。ここも小さな馬頭観世音の塚が在る事が判って立ち寄ってみたのだが、ここでは木製の塔婆迄建てられている。という事は、定期的に今も供養を行っているという事なのだろう。
神崎川と云う印旛沼放水路に続く、上流は北総鉄道の北迄伸びる高低差の小さな川沿い。少々、遠回りになるが、所々に稲刈りをしている風景も眺められるので土手を歩いてみた。川面は流れをほとんど感じられない程に静かだった。最近は、地形図に高圧線とその鉄塔の所在が記載されているので、これを数えながらどこの畦道を歩くかチェック出来る。
調査に歩く社寺は予めネット情報をチェックしている。この小さな神社まで往復 3.6 km を歩いた訳だが、この小さな不ぞろいの石垣の積石が、伊豆の硬質の角礫緑色凝灰岩だと想定したので訪ねた次第。安山岩で築かれた階段の標柱には「明和五戌子九月」とあるので、恐らく同時にこの石垣も築かれたと考えて良いだろう。1768年。
石積の脇に、小さな間知石が置かれていた。緑色の苔を透かして角礫が見える。断面は小さい(24 x 10 cm前後)が、控えは 30 cm 以上と長い。一面の蕎麦畑小さな花だが美しい。島田台の「庚申塚」。と言っても「大帝釈天王」や「馬頭観世音」等の石塔も混在する。背景も蕎麦畑。
二十数基の中で凝灰岩質石材は半分に満たないが、その石使いが面白くてこの塚に一時間ほど居て、125枚も撮影してしまった。
画像は、石塔本体は白色の軽石が押しつぶされた構造が剥離して観察される凝灰岩。二番目はやや粗粒部が多い、粒状の凝灰質の偽礫が目立つ緑色凝灰岩で風化が進んでいる。その下の講の賛同者名が刻まれた部分は、細粒の緑色凝灰岩で推定石灰質を帯びている。その下は大仁付近の石灰質の「小室石」らしい。風化の状態が独特。一番下の礎石はこの塚を整備した時に一律に置き換えたのだろうと思われる大谷石か鹿沼石。ミソは殆ど無い。
行々林近くのお寺前の庚申塚には「天保五午四月」(1834)の刻銘が有る「庚申塔」が凝灰岩で造られていた。文字面を掘り込んだものはこの時代には珍しい
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