2020年12月31日木曜日

今年もお世話になりました!

 年初から新型コロナの感染拡大が喧伝され、例年になく行動が制限されたが、当初の千葉県内は比較的感染数が少なかったものの、徐々に増え始め年末には自分のかかりつけ病院にクラスターが発生するまでになってしまった。年初はやや神経質な程に、怯えながらも行動範囲を抑えていたが、徐々にこれは短期間に終息するものではない事に気付き始めてから、博物館を介した仲間達とは行動を共にする機会は無いものの、自分のライフワークである、歴史的な凝灰岩質石材の観察・調査は細心の注意を払いながらも再開する事にした。九州から出て来て55年、終の棲家と決めた千葉県を徹底的に歩き回ってみたいと云う気持ちも強いので、無駄を省くために事前調査を入念に行い、可能性が疑われる場所は細大漏らさず歩いて調査はするものの、可能性に乏しいと判断した場所は、迷う事無く調査対象から外した。

この為、酷く調査場所間の距離が延びる事態は発生したが、逆に効率が上がり、年間のフィールドワークに充てた日数は、均すと5日に1日程度の割合で74日と少なかったが、凝灰岩質石材を観察する機会は増え、345ヵ所での観察をこなし、2013年以来の調査件数が1,400ヵ所を越えた。特に千葉県内は、235ヵ所で凝灰岩質石材に新しく出会う事が出来た。

添付の地図は、今年のフィールドワークで、凝灰岩質石材に出会う事が出来た場所と千葉県内の主要部を表示したものを地理院地図の白地図にプロットしたものだ。そうそう、まだ今一つデータの書式が時々駄々を捏ねるが、今年は地理院地図に、調査ヵ所を簡単にプロットする事が出来るようになった事も嬉しい。

この一年間に,フィールドで歴史的な凝灰岩質石材の使用状況を確認出来た場所を国土地理院の地形図にプロットしたものです。確率は4割程度なので、実際に訪ねた場所はこの2.5倍くらいになります。
千葉県内の私が比較的動き易い地域のみを抽出したもの。前の画像をそのまま拡大縮小できますので・・・気に入った凝灰岩質石材の画像を少し並べてみます。どんな石材かお判りいただけるでしょうか?

伊豆の凝灰岩です。
これも伊豆の凝灰岩ですが、火山岩塊の隙間に細粒の緑色凝灰質が詰まっています。大部分は、火山岩礫が風化していますが、一部に新鮮な美しい岩塊が混じる事が有ります。
鹿児島の山川石です。これは島津公の墓石で、加工時は比較的細工をしやすいのですが、時間の経過とともに表面が硬く風化の影響を受けにくい良質な石材です。
伊豆半島でも南部の須崎付近を中心に採掘された石材で、礎石等によく使われます。石灰質の砂岩で凝灰質も混じっています。恐らく、伊豆から一番沢山運ばれた石材ではないかと思っています。但し、礎石等に使われるので、目立たない事が多い残念な石材です。
二番目に多いだろうと思われる「みどり」と云う石材で細工物に多く使われます。粒子の粗いっ分が、時に弱い事が有り、風化が進む事が有りますが、屋内に使われると寿命が素晴らしく伸びます。採掘されたばかりのものは濃緑色です。
小室石と云う石灰質の差礫岩です。丈夫なので、修善寺付近では鳥居などにも使われています。顕微鏡で見るとこの様に美しい岩片が含まれて、石灰質で囲まれています。

私の凝灰岩質石材の原点ともいえる鋸山です。浜金谷の跨線橋の上から望遠レンズで撮影したものです。
 子供の頃からの強い興味を抱いていた火山の姿にも、この情報化社会の進化で、ほぼ毎日、世界中の数多くの出会えるようになったのも嬉しい。日本火山の会を立ち上げて下さった竹内さんや、生意気な私に影でこっそり私の間違いをご教示下さっていた皆さんや、フィールドワークに誘って下さった皆さんに感謝です。
今年も、皆様には大変お世話になりました。 来年も宜しくお願いします。

2020年12月21日月曜日

匝瑳市・椿の海水神社:2020年の最後の県内遠出 FW ①

 年内のFW はあと一回を予定しているが、公共交通機関の利便性に欠ける千葉県では、九十九里方面の FW はかなり辛いので、時々、カミさんに車で走って貰う。昨日は、匝瑳市を中心にやっと場所を特定出来た「爪かき地蔵尊」と怪しい石碑が在るらしい「椿の海水神社」と板碑の在る数か所を一気に回った。「椿の海水神社」はこの地域(干潟駅に近いのだが)の干拓にまつわる伝説( https://www.city.sosa.lg.jp/page/page001250.html )が有ったりして面白い場所だが、最近は御朱印ブームで休日には参詣者が絶えないらしい。

ネットで神社境内の画像がいろいろとUPされる中で、かなり凹凸の激しい、文字が全く読み取れないと云うよりは、文字を書く場所が無い、およそ石碑に使えそうも無い石材が下総型板碑風に佇んでいる画像を目にしたのでこれは「成東石」かもしれないと確認に出掛けた次第。

今年もコロナ騒ぎで、何処迄フィールドを歩けるのか心配したが、三百ヶ所を越えて軟質石材の観察をする事が出来た。感謝である。

千葉県東部は、情報が乏しいので何度も走って小さな情報を基に調査するので、GPSの軌跡は凄まじく錯綜していて調査の効率の悪さを象徴しているから、青色はこれまでに調査が終わって、石材の観察記録を作成した場所を示し、赤色は昨日の調査で成果が有った場所を示している。緑で囲んだのが「椿の海水神社」。
この日は7時20分に柏の自宅を出て16時20分の帰宅。9時間で走行距離は丁度 220 km。
件の石碑。実はこれは裏側。これなら飯岡石でも通りそうな雰囲気ですが、表は丁度木漏れ日で斑になり、凹凸との見分けが付き難いので全体像は裏側をご紹介。
表の特徴的な部分:スケールが無くて申し訳ないが、表から裏に貫通する穴が開いている。指が通る程度の小さな穴だが、飯岡石では穿孔貝が巣穴でも作らない限り、この様な貫通穴は開かない。成東石は、凹凸が激しい事が多いのと、この様な貫通穴が結構出来やすいのが特徴だと考えている。
破断面と云っても、苔生しているので見えているのは「蘚苔類」で石の表面では無いのだが、おや、蜘蛛が居ましたね。
これは、手水鉢の脇で、気に隠れていたものだが、中央に何か文字があるようにも思えるのだが、有り勝ちな「青面金剛」とかを当てはめようにもうまくいかないので生痕化石なのだろうか?これも、飯岡石の裏面と云われれば反論は難しいが、やはり凹凸が激し過ぎるので成東石と判断するのが順当だろう。面白い事に、飯岡石は片面にスコリアが残る荷重痕が観察され、この面に文字や線刻が施され、裏面は生痕化石が有るので表よりは凹凸が多い。
「銚子石」で作られた石宮は「大杉大明神」で「文化二丑(1805)年」だろうか?場所柄、銚子石は多数使われている
拝殿・幣殿の見易い位置の束石は改修されてコンクリートの様だが、奥の方の束石は「飯岡石」が使われている。
この神社は、干拓事業が寛政後に社殿を造営したとされているので、1600年代の終わりごろの造営らしいのだが、拝殿・幣殿の外周の敷石は緑色凝灰岩が、本殿の礎石は、南伊豆の石灰質砂岩が使われている。本殿礎石の石灰質砂岩は、凝灰質でもあるのだが、細かな石灰質生物遺骸がラミナに沿って分布している。この斜めのラミナが重要な特徴なのです。
この礫質の緑色凝灰岩は、実は産地不詳なのだが、決まって伊豆の凝灰岩や安山岩と一緒に使われている。
手水鉢はコロナ騒ぎで、何処の神社も水を止めたり使えなくしている処が多いのだが、この神社は洒落ているな!と思ったのは、この様に南天が沈めてある。オヤッと思って体の向きを変えながら撮影したので斜めで端が切れてしまったが、チャンと撮ればよかったなと反省。

2020年12月17日木曜日

寒い朝のFW:印西市船尾付近

 千葉県内のポツリポツリと抜けている調査地域の落穂拾いの様な調査を相変わらず続けている。今朝は寒かった!歩いた距離は恐らく 9 km 余り。大部歩けるようになってきた。今日は、千葉ニュータウンの南側。宅地開発から逃れる事が出来た台地の周辺部にある社寺が狙い。この付近の「印旛沼」沿岸には、宗像神社が十三社があり、それ以外に「鳥見神社」や「麻賀多神社」が夫々十数社祭祀されている。「宗像神社」は、九州は福岡県にその元締め「宗像大社」が在り、私の出身地とも近いので何度か参詣した事が在る。九州の神社からどのような理由でこの地に招かれたのか興味深い。

今日は、興味深いものを沢山観察する事が出来たが、残念ながらその造立年代が不詳のものが多く、余りデータとしての意味に欠けるのが残念。冷たい風の吹く中を一生懸命歩いたのだが・・・

細い緑の線で囲んだ場所が、凝灰岩質石材を観察する事が出来た場所。右上の「武西学園台」と書かれた場所の斜めのやや太い線は、此処に「百庚申」が有り調査した時のもの。
右下のやや太い緑の線で囲んだ部分は、埋蔵文化財の発掘調査をしていた場所。
古いものでは無い様な雰囲気なのだが、何時頃、何の為に造立されたのか定かでは無い、狛犬の台座の様に溶岩を積み上げた脇から凝灰岩の龍が首を出していた。碑文が見付からない。
三番目に訪ねた「宗像神社」は、改築されていたが社殿の基壇は昔の石材が転用されていた。角礫を含む緑色凝灰岩で所謂「湯ヶ島層」の産物らしく、凝灰岩にしては硬いので間知石ややや小さめの切り石として石積み用に使われる事が多い石材だ。普段は、様々な角礫が含まれているのだが、此処では黒い、恐らく水冷を受けた玄武岩ではないかと思われる角礫が殆どだ。
角礫には斑晶が在るものと無い奴が在る。
「火皇子神社」と云う不思議な名前の神社を訪ねると埋蔵文化財の発掘調査を行っていた。この左手が神社なのだが、その先の道路は誰も通らないと見たのか道路部分も発掘されている。どうやら古い往還沿いの住宅地らしい。道路開発の為の発掘調査らしい。
場所はこんな所。丘陵地である。
住居跡らしい発掘場所。一辺が 2~3m程度。赤紫で囲んだ部分は「カマド」らしく、土の色がやや赤く変色している。他の住居址も似た様な大きさだった。
「大日塚」と云う塚なのだが、出羽三山碑で占拠されてしまっている。千葉県は今でも出羽三山講が盛んな土地で。実に三山講の記念碑が多いのです。
案内板に「無銘の石祠」と書かれているのが、他に見当たらないので銚子石(細粒砂岩)製の、家形墓石の事らしい。壊れてしまっている。
スケールと一緒に写真を撮ってみたが、やはり手持ちでは画像がぼけますな!、「細粒砂岩」を表したかった。緑色は黴だろうか?

2020年12月8日火曜日

君は「狛犬」なの? 白井市諏訪神社の小さな怪物。

 自分の住んでいる「柏市」内は、年金生活で遠距離への交通費が乏しくなってきたら歩こうと思って、まだあまり手を付けていないのだが、既に観察記録を作成したポイントの千葉県内の分布図を造って見たら、柏市と境を接している「白井市」ではまだ一件も観察記録が作成されていない事に気付いた。勿論、白井市内を歩いて居ない訳ではないのだが、不思議と大谷石や芦野石等以外の凝灰岩を中心に据えた「軟石」では観察の機会が得られていなかった様なので、今日は市内の五ヵ所を巡って、その何れでも、凝灰岩質石材に巡り合うことが出来た。

これまで、恐らく、2,000ヵ所程度の神社を巡った心算だが、今日は少々不思議なものに出会ってしまった。何かの、所謂「フィギア」が悪戯で置かれていただけなのかもしれないが、かなり凝った造り込みをしており、樹脂製でも無いのでご紹介しよう。

スケールを置いて写せばよかったのだが、少々 驚いていたので其処迄気が回らなかった。後で、5枚目の画像で何処にあったのか見て頂くので大きさもある程度見当が付けられるかと思う。小さな階段の脇に立つ、15 cm 角位の標柱の上に居た。
今日のコースは、私の住む柏市と境を接する「白井市」。運賃が高くてその名を轟かす「北総鉄道」の北側。白井駅を起点に反時計回りに五箇所の神社を巡った。帰りは西白井駅まで歩く心算だったが池の傍の緑の点の付近で撃沈。バスに乗って鎌ヶ谷に抜けた。今日は 13,816 歩だから、8 km 程度だろうか?諏訪神社の座標は“ 35.797666,140.036921 ”。地理院地図でも、Google map でもそのままコピペで使える。
小さな怪物が居たのは、四番目の「諏訪神社」。鳥居に架かる神社額は細粒の緑色凝灰岩を使っていて、神社名の部分は銅板の鋳物か、打ち出しらしい。
神社額の上部。粗削りではあるが、中々の作。
明治二十五(1892)年十一月の刻銘が有る鳥居は、安山岩製。車が来ないのを確認して道路の真ん中あたりから鳥居と社殿を写した画像。参道の途中の三段の階段の右手に白線の丸で囲んだのが見えると思うが、此処にその怪物が居た。最初は気付かずに、行ったり来たりしながら、左右の叢林の中の石碑等を写しこの画像を撮った後で、写し忘れの画像が無いか点検しながら歩いていたら突然、目に飛び込んで来た。
最初の画像とは反対側から見た画像。背中に背負っているのは「香」を焚くための受け皿の様な気がする。
境内には結構な数の凝灰岩製の石碑類が鎮座している。この「三山講」碑は文化八辛未(1881)年。細粒の緑勝凝灰岩です。千葉県内は今でもこの三山講が盛んです。
こちらは、同様に盛んな「女人講」。天保十二丑(1841)十月吉日。オッと!これは安山岩製。
歴史的な凝灰岩質(砂岩等の軟質石材を含む)石材の利用状況も 1.385 件近くの観察例を積み重ねて来て、その中の約四割、 550件が千葉県内。自分では多いと思っているのだが、地図にプロットして見ると、比較的数の多い千葉県北部でもこんなに隙間だらけ。交通の便の悪い所は中々進められない。

2020年12月2日水曜日

成東石の石碑

 この日は九十九里浜に近い匝瑳市と旭市の境目付近を走って、古建築での飯岡石と銚子砂岩の利用状況を調べていた。当初予定の10ヵ所中9か所と、走っている最中に庚申塚を見付けて立ち寄ったりまずまずのデータを得る事が出来た。最後に立ち寄った匝瑳市の「八幡大神」で、社殿の背後に「成東石」を使った塚が建立されていた。「成東石」は不定形の石材で、これまでは庭石か、石碑の礎石としての用途しか見た事が無かったけれど、なる程、ややおどろおどろしさが出て面白いと思った次第。

この地図以外の場所も回ったが、取敢えずは緑で囲んだ場所が今日走り回った場所。
山武市成東に「波切不動院」が在る。この寺院の境内にこの石材の典型的露頭が在る。崖の上に本殿が鎮座
境内の露頭の一つ。石灰質で細砂が固められたものなので、海水が浸透し易かった部分が固まり、流れにくかった部分は固結しなかったので地上に出てしまうと流れ去ってこの様に不定形の露頭を示す次第。
匝瑳市八日市場の八幡大神境内。本殿の裏手の小高い場所に石碑が据えられている。これは「成東石」
凸凹で不定形。20cmのスケールを置いているがこれは背面
正面。スケールは同様に 20 cm
前の画像の部分をもう少し拡大した。時々貝殻化石等も掴まっているが・・・
側面。一枚岩とはいかない。
尚、石碑の火炎型を形成する為に、足元付近等は加工しているので完全に自然石の形状そのままとはいかない。

美しく整った神社基壇

 最近は神社の改修時に基壇にコンクリートか花崗岩が使われる様になってしまって、何となく味気ない気がする。

先日、松戸市内の未だ訪ねていなかった神社をピックアップして六ケ所程を歩いたが、最初の神社で黴も地衣類も殆ど無い美しく整備された神社基壇を拝見したのでご紹介。基壇だけで四種類の伊豆半島産出の凝灰岩が使われている。この日は幸先の良いスタートとなった。

場所は武蔵野線と北総鉄道の交差する「東松戸」から直ぐの高台。松戸からのバス便も頻繁にはしっているので、次のポイントへの移動はバス利用。GPSをリュックに入れていると座標が正しく計測されないと云う例。台地の上の赤丸が「春日神社」。緑の丸が古刹の門前でこの付近では古い部類に属する庚申塔が安置されている場所。造立は「嘉永五(1852)」年の造立。

基壇の角の部分の構成。亀腹の安山岩を除くとこの中に前述の通り四種類の伊豆軟石が用いられている。基壇の最上部の「笠石」には、比較的風化で茶褐色を呈す火山岩塊の集合体で、その隙間がはぎっしりと細粒の緑色の凝灰質で埋められている石材。ここでは珍しく粘土化したものと、風化の程度が浅く灰色のものが混在している。基壇本体は、角礫を含む緑色凝灰岩で、凝灰岩の中ではやや硬い部類に属すもの。細かい加工向きでは無いので、切石か間知石の形で擁壁に使われている事が多い。四隅の上の方は、砂質~やや粗粒の混じる事が有る緑色凝灰岩。これは加工性が良いので石仏や狛犬等にもよく使われる。四隅の下の方は、石灰質の砂岩。須崎半島付近を中心に分布していて、石灰質で「固結」しているので比較的水に強い石材。
笠石の拡大図:真ん中あたりの茶色は既に粘土化している。左右にはまだ灰色の残る比較的風化していない岩塊が見える。普段は気泡が観察される茶褐色の火山岩塊ばかりなので、
余り風化していない火山岩塊は珍しい。
基壇本体の角礫を含む緑色凝灰岩。この岩石も、時に妙に基質が風化して粘土化しているものが有るが、此処のは比較的硬そうだ。少し角礫の状態を見てみよう。
前の画像の一部を拡大したもの。結構、いろんな岩片が混ざっている。小豆色の岩片にはアミグデール:杏仁状構造が観察される事が多いのだが、ここでは長石の斑晶が多い。
角礫が目立つ部分の拡大図。細かなサイズも結構多い。
左手の上下二段の石材は、淡い緑~青色が美しい石材。細粒のものほど緻密で長持ちする鶏頭に在る。加工性が良いので狛犬や石塔・石宮等に使われる事が多い。
淡褐色の岩石は、石灰質の生物遺骸が堆積して石灰質がバインダーとなっている石材。下田市内の須崎半島周辺から産出。
この日は「クサギ」の実の色までもが美しく輝いている様だった。今年は既に画像の枚数が間も無く 15,000枚に達する。一枚当たりのデータ量は 6MB 程度だから 90 GB に達した。
後一か月で何処まで伸びるかな?寒くなるからネ~!