凝灰岩質石材の調査で、平均6頁程度の報告書に画像を整理できる調査がやっと1,000件を越えた。房州石だけの調査は何時始めたか記憶にも無いが
伊豆の石材を意識し始めてからは、既に五年以上の月日が過ぎている。幸手市内や権現堂周辺は、2017年に「埼玉すりばち学会」の皆さんにお世話になりながら調査が進んでいたので、今日は、幸手と久喜の境目の中川周辺。
さて、今週は週末に岩舟周辺の神社と石造建築を訪ねる予定。
幸手の駅からこの付近への公共交通機関は無いので、私の調査としては珍しく最初はタクシーで移動。運転手さんが間違えて「高須賀池」の畔に行ってしまった。仕方がないので時計方向に回る。
高須賀池は、天明三(1783)年の浅間山噴火の後、天明六年の浅間川・権現堂堤の破堤で出来た「押堀」丁度、アサザの花が満開。
残念ながら太陽が南なので花の正面から撮れなかった。
松石の権現神社:観るべきものも無いと思ったのだが、道路沿いに切石がある。汚れていて岩相も観る事も出来ない。
一ヶ所、風化剥離らしい表面があった。既に緑の苔が映えているが、斜長石らしい結晶が数多く観察され、緑色凝灰岩に間違いない。この手には石灰質で硬くなっているものがあるので、小さな破片を探して持ち帰り。来月に博物館に行く時に観察しよう。
この付近も舟運で栄えた地域なので、無住の寺の無縁仏の墓標には緑色凝灰岩が覆い。粒度分布が様々なのだけれど石屋さんが「みどり」と云う彫刻に適した石材が使われている。
墓石の一例:延享三(1746)年十一月八日と二十四日に相次いでお二人が亡くなられている事が判る。結構古い時期に相当する。
中川を越えて間も無くの狐塚にある「氷川・鹿島大神宮」の「神社額」も「みどり」が使われている。寛政七(1795)年.
神社額をの表面を拡大すると、発泡したものや、斑晶が風化で抜け出した砂粒サイズの岩片が観察される。赤い部分は細粒分が風化で抜けた場所。
中里辺りで見掛けた木造橋。歩道面はモルタル仕上げだが現在は通行禁止だ。
最後の「高須賀大杉神社」は既に改修されていたが、境内社はどうやら「水神様」と思われるが、石祠と手水鉢がやはり「みどり」で造られており、その礎石には石灰質生物遺骸の豊富な石灰質凝灰岩が使われている。
手水鉢表面の接写画像:間違いなく「みどり」である。手水鉢にこの石材を使っているのは余り見た記憶が無い。 以上
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