これは、友人たちに「銚子石」の魅力を御案内する為にFBに投稿したものを、そのまま転載したものです。従って、これまでに銚子砂岩に関して投稿したものと重複する部分があります。
2012年の10月に地質学会関東支部が一般参加を受け付ける銚子での地質観察会を開いて下さった。この時に「俺は銚子石を掘ってたよ!」と云うオジサンに出会う事が出来たのがきっかけで、銚子砂岩や付加体中の粘土を素材にした銚子瓦の事を観察する機会が得られてその後の「房総半島産の歴史的石材調査」に大変力を得る事になった。ここ暫くは銚子石に出会う機会が無かったが、佐倉の街で再会出来たので銚子砂岩の風景を少し御案内したい。
佐倉市内では享和三癸亥(1803)年の銘が有る石塔が存在したが、銚子での砂岩の採掘史は古い。しかし、不思議な事に、砂岩を胎胚する地層が存在する筈が無い二つの村が喧嘩騒ぎを起こした記録が元禄四年辛未(1691)年六月、「今宮村石切共飯沼村地内、畳磯と申所え参、砥石切申に付、飯沼村名主・組頭罷出、諸道具迄押え取上げ、砥山の御請負其節設楽勘左衛門様ご支配に・・・」との文書が残されている。二つの村は利根川に面し、此処には「畳磯」等存在する訳も無く、実在する「畳磯」は南側の現在の外川地区に在る。今はすらすらとこんなことを言えるが、当時は謎だらけで調査は暗礁に乗り上げた様だった。
石切り場跡から銚子燈台方向を見上げた風景
犬吠崎の崖の一部を海側から見上げた図
石切り場跡
燈台脇から石切り跡と廃止された遊歩道を見下ろした図
10回程度の連載を予定しています。
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