この資料に引用されている「若松:1982」とは表記文献の「引用文献」の項目から、「菖蒲天王山塚古墳の造営時期と被葬者の性格について;土曜考古 第6号」であるらしい。残念ながらこの原文献にはアクセス出来ていないのだが、この資料には興味ある資料が他にも掲載されている。例えば資料の35頁には同じ文献からの引用として「第4図 角閃石安山岩質石材削材の平均用材の面積と産出地からの距離との関係」がある。
此処には幾つかの例外はあるものの、角閃石安山岩の産出地を群馬県と埼玉県境の利根川水系として、この石材のを使用している古墳では「産出地から遠くなるほど、つまり下流に向うほど小さくなり、かつ均等化する事実をつかんだ。」と書かれている。
尚、原文献の著者:若松良一氏は「さきたま資料館学芸員」、「将軍山古墳と房州石」の著者:高橋一夫氏は埼玉県埋蔵文化財調査事業団副部長、本間岳史氏は埼玉県文化財保護課主査(何れも関係論文執筆当時)である。
本、資料の第27頁には、(3)「房州石」の原産地の特定とその根拠 としてその一部を抜粋して紹介すると、「上総湊から海岸沿いに南下すると、竹岡漁港附近から萩生附近にかけては、良く成層したスコリア質の凝灰角礫岩ないし火山礫凝灰岩が卓越する。これらの岩石は竹岡層及び萩生層のものである。
さらに南下して金谷漁港に近づくと、稲子沢層の灰色泥岩ないし凝灰質砂岩が露出する。凝灰質砂岩は塊状のものと層状構造を示す部分とがある。(一部略)
稲子沢層の岩質及び岩相の特徴は、前述の将軍山古墳や柴又八幡神社古墳の石室などを構成する「房州石」のそれと非常によく一致する。(一部略)
萩生層や竹岡層の転石を用いずに何故稲子沢層の転石を用いたか、また何故穿孔を有するものを選んだかは不明である。筆者らは、貝殻を内包するあばた状の無数の穴があいた特異な岩相が石材を選択する際に何らかのインパクトとして働いたのではないかと考えたいが、今後の課題である。」(以上)
さて、所要で南房総まで出掛け、そのまま帰宅するのはもったいないので帰途に、千葉県立博物館の海の分館のそばの勝浦の海岸で、海岸の崖を少しだけ観察して来た。
最初の画像は、ウロチョロした海岸の崖の一つ




0 件のコメント:
コメントを投稿