2021年2月4日木曜日

南海の桃李

 澤田瞳子の著作に「南海の桃李」と云う短編小説が有る。昨日夕方に澤田氏の別の作品を探しに書店に立ち寄ったのだが、見付からず、この小説が納められた「秋萩の散る」と云う文庫本を手に入れた。車中でこれを読むと。吉備真備が唐からの帰途に沖縄から続く二百余りの島々に、島の位置や日本への道のり、島内の水場や、連絡先とその位置等を記した石碑を島々に建てようとする中での物語である。

時代は、僧鑑真が来日する船が出て来るので西暦の754年前後の物語。私が調べている房総半島に現存する石碑類では最古のものが「建長五(1253)年」だから、更に500年ほども遡らなければならない。和銅(711)四年に造立されたとする群馬県高崎市の砂岩を用いた「多胡碑」。「神亀三(726)年」に同じく高崎市に現存する輝石安山岩を用いた「金井沢碑」の時代に近い。果たして、南海の島々に文字を刻んだどんな石材が使われたのか、興味深かったのだが残念ながら石質を思わせる記述は無いままに小説は終わる。

また、作中には「石碑」について、吉備真備に南の島で付けられた地元の若い官吏の言葉に「南海には岩場の無い島が数多ございます。そういった地では、岩は大変貴重なもの。石碑なぞ建てれば、すぐに壊され、錨石にされてしまいましょう」そうだ、房総半島でも板碑が礎石に使われている例が在り、富士塚の山留に使われている事も有る。

もし、大宰府で石材を調達すると緑色片岩あたりだろうか?鹿児島なら安山岩、屋久島の花崗岩は無理だろうな?とか想像の翼は九州の南の空を舞う。

和銅四年(711)に造立された、多胡石(砂岩)を用いた高崎市の「多胡碑」の一部。
側面には多胡石の縞模様が観察される
飛鳥時代の681年に造立された、輝石安山岩を用いた「山上碑」
匝瑳市にある「爪かき地蔵」は爪で引っ掻いた様な細い線で描かれた地蔵尊。旭市の飯岡石に刻まれている。有孔虫も大量に含まれ、バブルウオールの火山ガラスも観察される石灰質泥岩で大きな石材の表側(刻字側)にはスコリアの荷重痕が、裏面には生痕化石が観察される。
大宰府で石碑を二百の島々に合計四百余りを置くとしたら、石材は北九州にも多い緑色片岩だろうか?故郷の北九州市戸畑区の大きな神社境内の石碑の一部。石巻の井内石(稲井石・仙台石)の分布調査をしている時に、この石碑が井内石かもしれないと、旧友の墓参に帰った時に回り道をしてみたら緑色片岩だった。
成田市滑河の古刹で山門の礎石に用いられた飯岡石の板碑。柱脇のスケールは 20 cm
松戸市の金山神社にある富士塚の山留には時代不詳の筑波山と思われる泥質片岩がいくつも使われている。ここが、今の処確認出来ている泥質片岩の流通範囲の西端。

「上野三碑」については下記を参照下さい。

https://www.city.takasaki.gunma.jp/info/sanpi/02.html

2021年1月23日土曜日

ガラス質玄武岩礫が混じる北関東の凝灰岩質石材

 

やっと、今年初めて、車で片道100km 程度の遠出をする事が出来た。週の半ばに二日間の勤務が入ってしまった為に少し生活のリズムが変わってしまい、今の処フィールドワークに出掛ける余裕がない。毎日が妙に眠い。

栃木県まで出掛け少し時間が空いたので真岡と茂木の間の芳賀郡西小沼という場所に天神様が有ると云うので立ち寄ると、良い香りの蠟梅が咲いていた。神社の参道階段は花崗岩で全く新しくなっていたので、凝灰岩の石材は期待できないと思っていたのだが、風化が進んでいるのではっきりとは判断できないが、なんとこの付近の「茂木石」や「芦沼石」の仲間らしい凝灰岩が拝殿礎石や、境内の井戸石に使われていた。

北関東の鹿沼石や大谷石と異なり、栃木市の「岩舟石」や真岡市の「磯山石」、焼き物で有名な益子の北に連なる「芦沼」や「茂木」方面には、急冷を受けたらしい、黒いガラス質の玄武岩礫が混じる事が多い。この芳賀神社に使われている石材は中でも黒い玄武岩礫のサイズがかなり大きい。さて何処で採掘されたものだろうか?

磯山石等は典型的な「地石」であり、真岡付近以外には中々これを使った石材は観察する機会が無いが、岩舟石は千葉県の関宿の利根川・江戸川分流部の堰等に使われた他、明治維新の東京市大開発に数多く使われた事が判っている。茂木石とその仲間は、現在の真岡鉄道が開通してからは土浦辺りまで運ばれたらしく、土浦との縁が深い銚子にも、一棟だけよく似た石材が使われた蔵が現存している。

拝殿礎石の一部。本殿は改修されてしまっている。
含まれている礫の例
井戸石は崩壊防止の為に鋼線で巻かれている
黒色礫に焦点を置いて撮影。スケールは 1円硬貨

以上

2021年1月8日金曜日

鋸山の元名石:南側の石切場跡

 鋸山北面の、金谷付近からの山の風景は、かなり広くの方々に知られているが、南側は北側と異なり特別に目立つような姿が無いのでどうやら印象に薄い様だ。金谷側では直近に、今の三浦半島とのフェリーターミナル付近が良港で石材の積み出しに最適であったのと対称に、恐らくは南側が先に石材産業としては成長したにも拘わらず当初は、比較的東側の地区で採掘を始めた事と、明鐘付近に積み出しに適当な場所が無かった為に軽便鉄道を敷設したにも関わらず輸送コストに負けて、今ではその殆どが雑木林に隠れている。2020年の夏の初めに、鋸山の東京湾側で長く石切を行っていた方の後裔の方にお会いして当時の文書綴りを拝見し、お話を伺う機会が有った。今日は、南側の石切場跡の画像を少しご紹介する。

鋸山の南側斜面を勝山辺りの海岸から眺めた画像です。特に目立つランドマークが無いのですが、稜線の中央よりやや左手に白いものが見えるのが、金谷側のロープウエイの山頂駅です。
撮影時期は不明ですが、採掘を行っていた時期の石切場の画像です。垂直に切り立った壁面と黒い口を開けている大きな横穴が採掘場です。白い小さな矢印を入れています。
鋸山の稜線をチェックするとこの画像の部分が雰囲気が似ています。白い斜めの線は、鋸山有料道路のガードレースなので、この有料道路に入れば(歩行禁止)なんとか石切場跡を観察できるかもしれません。
鋸山有料道路の U字カーブの崖縁にある空き地から石切場方向を望遠レンズでチェックすると、二枚目の石切場の所有者から拝見させて頂いた昔の石切場の画像に矢印を置いたのと同じ斜めの形状が確認出来ました。前の画像の有料道路の白い線の端にも同じ形状が見えていました。
良い目印が見付かったので、これを画像の範囲に入れたまま尾根付近まで写るように、望遠のズームを調整して写した画像です。同じ鋸山南面でも、東側が既に木々に隠されてしまったのにも関わらず、西側は幸いにもこの旧崖が幸いして植生が繁茂せず
その姿を留めているのが判りました。
カメラを、目印を捉えたまま、右手に振ると、尾根側よりもフレッシュは壁面が見えます。尾根側は江戸時代の、この新しい部分は明治の後半の石切跡の様です。
望遠ズームを調整して壁面を観察すると、所々に、手掘りの跡が見えます。堆積模様も少し黒黴が生じている部分もありますが、綺麗ですね。
前の画像にも写っているのですが、壁面に気になるものが写っていました。赤でマーキングしていますが、少なくとも 4 筋のクライミングロープが固定されている様です。
目立ったハーケン跡はありませんが、三浦半島の鷹取山ではロッククライミングのトレーニング場となっている部分があり、壁面が凸凹になっています。石切場を保存する立場から言えば、壁面で観察されるラミナや、手掘りの際の段差は石材の大きさや石材を組んだ時のサイズや模様を照合するうえで貴重な試料なのです。鷹取山の二の舞にならない事を切に願っています。

2020年12月31日木曜日

今年もお世話になりました!

 年初から新型コロナの感染拡大が喧伝され、例年になく行動が制限されたが、当初の千葉県内は比較的感染数が少なかったものの、徐々に増え始め年末には自分のかかりつけ病院にクラスターが発生するまでになってしまった。年初はやや神経質な程に、怯えながらも行動範囲を抑えていたが、徐々にこれは短期間に終息するものではない事に気付き始めてから、博物館を介した仲間達とは行動を共にする機会は無いものの、自分のライフワークである、歴史的な凝灰岩質石材の観察・調査は細心の注意を払いながらも再開する事にした。九州から出て来て55年、終の棲家と決めた千葉県を徹底的に歩き回ってみたいと云う気持ちも強いので、無駄を省くために事前調査を入念に行い、可能性が疑われる場所は細大漏らさず歩いて調査はするものの、可能性に乏しいと判断した場所は、迷う事無く調査対象から外した。

この為、酷く調査場所間の距離が延びる事態は発生したが、逆に効率が上がり、年間のフィールドワークに充てた日数は、均すと5日に1日程度の割合で74日と少なかったが、凝灰岩質石材を観察する機会は増え、345ヵ所での観察をこなし、2013年以来の調査件数が1,400ヵ所を越えた。特に千葉県内は、235ヵ所で凝灰岩質石材に新しく出会う事が出来た。

添付の地図は、今年のフィールドワークで、凝灰岩質石材に出会う事が出来た場所と千葉県内の主要部を表示したものを地理院地図の白地図にプロットしたものだ。そうそう、まだ今一つデータの書式が時々駄々を捏ねるが、今年は地理院地図に、調査ヵ所を簡単にプロットする事が出来るようになった事も嬉しい。

この一年間に,フィールドで歴史的な凝灰岩質石材の使用状況を確認出来た場所を国土地理院の地形図にプロットしたものです。確率は4割程度なので、実際に訪ねた場所はこの2.5倍くらいになります。
千葉県内の私が比較的動き易い地域のみを抽出したもの。前の画像をそのまま拡大縮小できますので・・・気に入った凝灰岩質石材の画像を少し並べてみます。どんな石材かお判りいただけるでしょうか?

伊豆の凝灰岩です。
これも伊豆の凝灰岩ですが、火山岩塊の隙間に細粒の緑色凝灰質が詰まっています。大部分は、火山岩礫が風化していますが、一部に新鮮な美しい岩塊が混じる事が有ります。
鹿児島の山川石です。これは島津公の墓石で、加工時は比較的細工をしやすいのですが、時間の経過とともに表面が硬く風化の影響を受けにくい良質な石材です。
伊豆半島でも南部の須崎付近を中心に採掘された石材で、礎石等によく使われます。石灰質の砂岩で凝灰質も混じっています。恐らく、伊豆から一番沢山運ばれた石材ではないかと思っています。但し、礎石等に使われるので、目立たない事が多い残念な石材です。
二番目に多いだろうと思われる「みどり」と云う石材で細工物に多く使われます。粒子の粗いっ分が、時に弱い事が有り、風化が進む事が有りますが、屋内に使われると寿命が素晴らしく伸びます。採掘されたばかりのものは濃緑色です。
小室石と云う石灰質の差礫岩です。丈夫なので、修善寺付近では鳥居などにも使われています。顕微鏡で見るとこの様に美しい岩片が含まれて、石灰質で囲まれています。

私の凝灰岩質石材の原点ともいえる鋸山です。浜金谷の跨線橋の上から望遠レンズで撮影したものです。
 子供の頃からの強い興味を抱いていた火山の姿にも、この情報化社会の進化で、ほぼ毎日、世界中の数多くの出会えるようになったのも嬉しい。日本火山の会を立ち上げて下さった竹内さんや、生意気な私に影でこっそり私の間違いをご教示下さっていた皆さんや、フィールドワークに誘って下さった皆さんに感謝です。
今年も、皆様には大変お世話になりました。 来年も宜しくお願いします。

2020年12月21日月曜日

匝瑳市・椿の海水神社:2020年の最後の県内遠出 FW ①

 年内のFW はあと一回を予定しているが、公共交通機関の利便性に欠ける千葉県では、九十九里方面の FW はかなり辛いので、時々、カミさんに車で走って貰う。昨日は、匝瑳市を中心にやっと場所を特定出来た「爪かき地蔵尊」と怪しい石碑が在るらしい「椿の海水神社」と板碑の在る数か所を一気に回った。「椿の海水神社」はこの地域(干潟駅に近いのだが)の干拓にまつわる伝説( https://www.city.sosa.lg.jp/page/page001250.html )が有ったりして面白い場所だが、最近は御朱印ブームで休日には参詣者が絶えないらしい。

ネットで神社境内の画像がいろいろとUPされる中で、かなり凹凸の激しい、文字が全く読み取れないと云うよりは、文字を書く場所が無い、およそ石碑に使えそうも無い石材が下総型板碑風に佇んでいる画像を目にしたのでこれは「成東石」かもしれないと確認に出掛けた次第。

今年もコロナ騒ぎで、何処迄フィールドを歩けるのか心配したが、三百ヶ所を越えて軟質石材の観察をする事が出来た。感謝である。

千葉県東部は、情報が乏しいので何度も走って小さな情報を基に調査するので、GPSの軌跡は凄まじく錯綜していて調査の効率の悪さを象徴しているから、青色はこれまでに調査が終わって、石材の観察記録を作成した場所を示し、赤色は昨日の調査で成果が有った場所を示している。緑で囲んだのが「椿の海水神社」。
この日は7時20分に柏の自宅を出て16時20分の帰宅。9時間で走行距離は丁度 220 km。
件の石碑。実はこれは裏側。これなら飯岡石でも通りそうな雰囲気ですが、表は丁度木漏れ日で斑になり、凹凸との見分けが付き難いので全体像は裏側をご紹介。
表の特徴的な部分:スケールが無くて申し訳ないが、表から裏に貫通する穴が開いている。指が通る程度の小さな穴だが、飯岡石では穿孔貝が巣穴でも作らない限り、この様な貫通穴は開かない。成東石は、凹凸が激しい事が多いのと、この様な貫通穴が結構出来やすいのが特徴だと考えている。
破断面と云っても、苔生しているので見えているのは「蘚苔類」で石の表面では無いのだが、おや、蜘蛛が居ましたね。
これは、手水鉢の脇で、気に隠れていたものだが、中央に何か文字があるようにも思えるのだが、有り勝ちな「青面金剛」とかを当てはめようにもうまくいかないので生痕化石なのだろうか?これも、飯岡石の裏面と云われれば反論は難しいが、やはり凹凸が激し過ぎるので成東石と判断するのが順当だろう。面白い事に、飯岡石は片面にスコリアが残る荷重痕が観察され、この面に文字や線刻が施され、裏面は生痕化石が有るので表よりは凹凸が多い。
「銚子石」で作られた石宮は「大杉大明神」で「文化二丑(1805)年」だろうか?場所柄、銚子石は多数使われている
拝殿・幣殿の見易い位置の束石は改修されてコンクリートの様だが、奥の方の束石は「飯岡石」が使われている。
この神社は、干拓事業が寛政後に社殿を造営したとされているので、1600年代の終わりごろの造営らしいのだが、拝殿・幣殿の外周の敷石は緑色凝灰岩が、本殿の礎石は、南伊豆の石灰質砂岩が使われている。本殿礎石の石灰質砂岩は、凝灰質でもあるのだが、細かな石灰質生物遺骸がラミナに沿って分布している。この斜めのラミナが重要な特徴なのです。
この礫質の緑色凝灰岩は、実は産地不詳なのだが、決まって伊豆の凝灰岩や安山岩と一緒に使われている。
手水鉢はコロナ騒ぎで、何処の神社も水を止めたり使えなくしている処が多いのだが、この神社は洒落ているな!と思ったのは、この様に南天が沈めてある。オヤッと思って体の向きを変えながら撮影したので斜めで端が切れてしまったが、チャンと撮ればよかったなと反省。

2020年12月17日木曜日

寒い朝のFW:印西市船尾付近

 千葉県内のポツリポツリと抜けている調査地域の落穂拾いの様な調査を相変わらず続けている。今朝は寒かった!歩いた距離は恐らく 9 km 余り。大部歩けるようになってきた。今日は、千葉ニュータウンの南側。宅地開発から逃れる事が出来た台地の周辺部にある社寺が狙い。この付近の「印旛沼」沿岸には、宗像神社が十三社があり、それ以外に「鳥見神社」や「麻賀多神社」が夫々十数社祭祀されている。「宗像神社」は、九州は福岡県にその元締め「宗像大社」が在り、私の出身地とも近いので何度か参詣した事が在る。九州の神社からどのような理由でこの地に招かれたのか興味深い。

今日は、興味深いものを沢山観察する事が出来たが、残念ながらその造立年代が不詳のものが多く、余りデータとしての意味に欠けるのが残念。冷たい風の吹く中を一生懸命歩いたのだが・・・

細い緑の線で囲んだ場所が、凝灰岩質石材を観察する事が出来た場所。右上の「武西学園台」と書かれた場所の斜めのやや太い線は、此処に「百庚申」が有り調査した時のもの。
右下のやや太い緑の線で囲んだ部分は、埋蔵文化財の発掘調査をしていた場所。
古いものでは無い様な雰囲気なのだが、何時頃、何の為に造立されたのか定かでは無い、狛犬の台座の様に溶岩を積み上げた脇から凝灰岩の龍が首を出していた。碑文が見付からない。
三番目に訪ねた「宗像神社」は、改築されていたが社殿の基壇は昔の石材が転用されていた。角礫を含む緑色凝灰岩で所謂「湯ヶ島層」の産物らしく、凝灰岩にしては硬いので間知石ややや小さめの切り石として石積み用に使われる事が多い石材だ。普段は、様々な角礫が含まれているのだが、此処では黒い、恐らく水冷を受けた玄武岩ではないかと思われる角礫が殆どだ。
角礫には斑晶が在るものと無い奴が在る。
「火皇子神社」と云う不思議な名前の神社を訪ねると埋蔵文化財の発掘調査を行っていた。この左手が神社なのだが、その先の道路は誰も通らないと見たのか道路部分も発掘されている。どうやら古い往還沿いの住宅地らしい。道路開発の為の発掘調査らしい。
場所はこんな所。丘陵地である。
住居跡らしい発掘場所。一辺が 2~3m程度。赤紫で囲んだ部分は「カマド」らしく、土の色がやや赤く変色している。他の住居址も似た様な大きさだった。
「大日塚」と云う塚なのだが、出羽三山碑で占拠されてしまっている。千葉県は今でも出羽三山講が盛んな土地で。実に三山講の記念碑が多いのです。
案内板に「無銘の石祠」と書かれているのが、他に見当たらないので銚子石(細粒砂岩)製の、家形墓石の事らしい。壊れてしまっている。
スケールと一緒に写真を撮ってみたが、やはり手持ちでは画像がぼけますな!、「細粒砂岩」を表したかった。緑色は黴だろうか?